昔、バーラーナシーの都にひとりの長者がいた。長者の家には牛飼いが雇われて働いていた。毎年柔らかい緑の草が青々と茂るころ、牛飼いは牛を連れて森の中に入り、牛小屋を建ててそこで番をしながら過ごすのを仕事としていた。
今年もその季節が来たので、牛飼いは森の中へ住まいを移した。森の中で、牛は緑の柔らかい若草を食べて丸々と肥え太った。そしておいしい乳をたくさん出した。牛飼いはその新鮮な乳を毎朝主人の長者のもとへ届けた。
数日たったある日、牛小屋の近くに一頭のライオンが住みついた。その日から牛は近くにいるライオンを怖がって食べ物ものどを通らなくなり、やせて乳もでなくなってしまった。
ある朝、長者は牛飼いの持って来た牛乳を見て尋ねた。
どうしたのだ。このごろの乳の出が少なくなったようだが、、、、
牛は具合でも悪いのかね。
はい、実は先日から牛小屋の近くにライオンが住みつきました。それを恐れて牛は草を食べなくなり、すっかりやせてしまったのです。
それで乳の出もめっきり悪くなったのでございます。
なるほど、そうだったのか。しかし、そのライオンをなんとかしないといけないな。
そう思っているのですが相手は百獣の王、とても立ち向かっていくことはできません。
長者はじっと考えた。
そのライオンに何か弱みはないものか
ご主人さま、ございます、ございます
おお、あるか。それはなんだ。
雌のシカでございます
雌ジカだと
はい。時々現れる雌ジカを見るライオンの目はあの凶暴さとはうって変わり、それはそれは優しいのです。
きっと雌ジカに恋心を抱いているのではないでしょうか。
なるほど、ライオンと雌ジカか。どうだろう、そのシカを捕らえることはできないだろうか。
はい、なんとかすれば、、、
それでは、そのシカをなんとかして捕らえるのだ。そして体中に毒を塗り、塗っては乾かして三日ほどたってからそれを放すのだ。
すると、ライオンはシカを恋い慕う気持ちからその体をなめ回すだろう。そして、毒にやられて死んでしまうに違いない。
長者から言われたとおり、牛飼いは苦心して雌ジカを捕らえた。そしてその体に毒を塗っては乾かし、それを繰り返して三日後にライオンの前へシカを放した。
ライオンは日ごろから恋い慕っている雌ジカがそばへ来たので、駆け寄ってシカの体中をなめて喜びを表した。
そのうちライオンは動きが鈍くなり、よろよろとよろめいたかと思うと崩れるように横倒しになり、そのまま動かなくなった。牛飼いからこの報告を受けた長者は、静かに言った。
愛欲の心はあの百獣の王ライオンでさえ迷わすものだ。日ごろ自分の食べ物としている雌ジカに愛欲の炎を燃やし、正しい判断を失ってしまった。そしてとうとう自分の命まで失ったのだ。
人間とて同じことだ。愛欲のため、それもよこしまな愛のために迷う者は多い。そしてすべてを失ってしまうのだ。
こう言って、長者はうたを唱えた。
信じる価値の ないものを
信じることなく 価値あるものを
正しく見直す 知恵をもて
盲信人を 難儀さす