夜叉と母親

夜叉のたくらみ

ある日、ひとりの母親が赤ん坊を抱いて大薬賢者のハス池へやって来た。

母親は着物を脱いで池のほとりに広げ、まず子供を洗って着物の上に寝かせた。それから今度は自分が水を浴びに池の中に入っていった。そこへ赤ん坊を食べようとたくらむ女の夜叉が若い女に化けて現れた。

これはあなたの赤ん坊なの。かわいい子ね。
わたしのお乳をあげましょうか。

夜叉が言った。

まあ、すみません。どうぞそうしてやってください。

恐ろしい夜叉とも知らず、母親は喜んで答えた。夜叉は赤ん坊を抱え上げて少しばかりあやしていたが、不意に子供を抱いたまま走りだした。

待って、わたしの子供をどこへ連れていくの

母親は真っ青になって追いかけ、やっとのことで夜叉を捕まえた。

わたしの子をどうするんですか

母親は夜叉の腕を引っ張って叫んだ。

まあ、何を言うの。これはわたしの子よ。
あなたの子だという証拠がどこにあるの。

夜叉はあきれたように女を見て言い返した。

わたしの大事な子を返してください。
その子はわたしがおなかを痛めて産んだ子です。返してください。
お願い、返して。

母親は必死に頼んだが、夜叉は子供を返そうとはしなかった。


大賢者の裁き

大薬賢者がその口論を聞きつけて二人を堂の中に招き入れた。大薬賢者がどんな裁判を行うかと大勢の人々が集まって来た。大薬賢者は一方の女の目が赤く、まばたきもしないのを見てすぐに夜叉だと気づいた。だがそのことには触れず、争いの内容を問いただしてから言った。

あなたたちはわたしの裁判に立ちますか

二人がうなずくと、大薬賢者は地面に一本の線を引いてその上に赤ん坊を寝かせた。

さあ、その子を引っ張り合いなさい。
この線から自分の方へ引き込むことのできた者がこの子の母親です。

大薬賢者は夜叉に子供の両足を、母親には両手を握らせて合図をした。力任せに引っ張られ、赤ん坊は火がついたように泣きだした。その時、母親は手を離して胸が張り裂けそうな声で泣きだした。

大薬賢者は周りを取り巻く人々に尋ねた。

母親とそうでない者と、子供に対してどちらが慈しみが深いでしょうか

大薬賢者よ、それは母親のほうです

人々は声をそろえて言った。

それでは、いま子供を力任せに引っ張って手にしているのが母親ですか。
それとも手を離して泣いているのが母親ですか。

賢者よ、手を離しているほうです

そのとおり。泣いているほうが本当の母親です。
そしてこっちの女は夜叉です。

人々の口から驚きの声が漏れた。


夜叉もすくいたい大賢者

夜叉ははっとして大薬賢者を見た。

賢者、おっしゃるとおりわたしは夜叉です

夜叉は首をうなだれた。

なぜその子を取ったのですか

食べようとしたのです

あなたは前世で悪い行いをしたためにこの世では夜叉となって生まれたというのに、このうえさらに悪事を重ねるのですか

大薬賢者は夜叉を戒め、教え諭して放してやった。

母親は喜びに顔を輝かせ、しっかりと両腕に抱きしめた我が子にほおずりをしながら大薬賢者に言った。

ありがとうございました。賢者、どうか長生きなさってください

ジャータカ546

『仏教説話大系』第8巻 「大薬賢者物語 大薬賢者の裁き」より
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