火の中のハス

豪商と辟支仏

昔、バーラーナシーの都に一人の豪商が住んでいた。たいへん情け深い人で、事のあるごとに施しをして、多くの貧しい人々に慕われていた。ある時、豪商は都にある四つの門にそれぞれ四か所、都の中央に一か所、自宅の門前に一か所、全部で六か所に布施堂を建て、食料や衣類などを貧しい人たちに施し、自らは厳しい戒律を守る布薩行に入った。

ちょうどその時、ただ一人深山に入って修行に明け暮れていた、辟支仏(びゃくしぶつ)(※)と尊称される修行者が、七日間の断食行を終え、托鉢に出かけようとしていた。

そうだ、今日はバーラーナシーの豪商の家へ行ってみよう

辟支仏はゆっくりと立ち上がると、体を清めるため湖水へ出かけてい った。それから神通力で作られた土鉢を両手に持つと、静かに呪文を唱えた。すると、辟支仏の体は、そのまま空に浮かび上がり、バーラーナシーに向けて歩きだした。
辟支仏の足は、土の上を歩くようにゆっくりと動いている。だがその速度は、鳥よりも雲よりも速かった。眼下に広がる山野は次々走り去って、またたく間にバーラーナシーの都に着いた。

辟支仏は、豪商の館の上空に止まってしばらく様子をながめていた。ちょうど食事時と見え、庭に作られたテーブルの上に、召し使いたちが美しい食器に盛ったごちそうを運んでいる。館の門前の布施堂には、多くの貧しい人々が群らがっている。辟支仏は、ごちそうの香りに引きつけられるように、少しずつ空を降りていった。

やがて、豪商がテーブルの近くにやって来た。そしていすに座ろうとしてふと空をながめた時、一人の辟支仏が空中を歩いてこちらに近づいてくるのが目に入った。豪商は慌てていすから離れると、手を合わせて信従の礼を表して言った。

さあどうぞ、こちらにお降りください

それから、近くの召し使いに命じた。

尊い辟支仏が托鉢に来られた。さあ、早くさし上げる鉢を持ってきなさい

召し使いは台所へ走っていった。


悪魔の邪魔

召し使いが姿を消した台所の陰から、悪魔が姿を現した。悪魔はきょろきょろ周囲を見回していたが、空中の辟支仏を見上げて、にやりと笑って言った。

たしかあの辟支仏は、七日間の断食行をしてきたはずだ。今日食べ物の布施がなければ、餓死をするに違いない。
よし、今からひとつ豪商の布施の邪魔をしてやろう。

悪腐はそう言うと、ぶるぶるっと体を震わし、なにか怪しげな呪文を唱えた。すると、すぐ目の前の中庭に、ものすごく大きな穴が開き、ちょうど巨大な囲炉裏のように、その中に火が燃えだした。火は庭いっぱいに広がった。ゴーゴー、ゴーゴーとまるで火炎地獄のように燃え盛った。悪魔は、炎の海を手であおるようにしながら空中に浮き上がり、歌うように言った。

燃えろ、燃えろ、燃えて布施の邪魔をしろ

鉢を持って出てきた召し使いは 目の前に噴き上がる火柱を見て、びっくりして叫んだ。

ご主人さま、大変です。中庭が火の海です。

火の海、なにをばかなことを

豪商が後ろを振り返ると、天をも焦がす、ものすごい火炎が巨大な囲炉裏の中からゴーゴーと上がっている。豪商は、火の海をじっとながめた。

うむ、これはただ事ではない。悪魔が仕組んだことに違いない。悪魔め、わたしの辟支仏への布施を妨害するつもりだな。
わたしは百や千の悪魔の妨害を受けて、ひるむ者でないことを見せてやらねばならん。

豪商は、自分の鉢を両手でしっかりと持つと、燃え盛る火炎に向かって歩いていった。炎のすぐ近くまで行って上を見ると、炎に見え隠れして、怪しい者の姿があった。

お前はだれだ

豪商は叫んだ。

わしか、わしは悪魔だ

この火炎は、お前の仕業か

そうだ

なぜ、こんなことをするのだ

うふふふ、お前の布施の邪魔をするためだ。そうすれば、あの辟支仏は飢えて死ぬはずだ。

悪魔は、不気味に笑いながら、手で火炎をあおぎ続けた。

いや、わたしは、布施の邪魔をすることも、辟支仏の命を絶つことも許さない。さあ、今から、お前とわたしのどちらの力が強いか勝負をしよう。

なにをこしゃくな。お前など、ひとひねりだ。

悪魔は豪商の言葉をあざ笑って言った。豪商は巨大な囲炉裏のふちに立った。

尊敬する辟支仏よ、わたしはこの火炎の中に入ってもはや二度と帰ってこないでしょう。
だが、わたしがささげるこの食べ物だけはお受け取りください。

鉢を空中にささげて豪商は言った。そして、そのまま燃え盛る火炎の中に入っていった。

その時だった。燃え盛る巨大な穴の底から、突然、噴水が上がった。そしてその噴水に支えられるようにして、一本の美しいハスの花が現れ、豪商の体をすくい上げた。火炎は相変わらず、ゴーゴーと上がっているが、もはや、なんの力にもならない。

清らかな噴水に包まれて、豪商を載せたハスの花は空中高く上がっていった。そこには辟支仏がにこやかに待ち受けていた。豪商は目を輝かせて鉢をささげた。

さあ、召し上が ってください

そして、次々と食べ物を辟支仏の鉢へ入れた。いつしか、空には大きな虹がかかっていた。

あなたの生命をかけた布施は、なによりも尊い。ありがとう。

辟支仏は礼を言うと、そのまま虹の上を歩いてヒマラヤ山へ帰っていった。悪魔は、じだんだをふんで悔しがったが、もはやどうすることもできなかった。

ジャータカ40

『仏教説話大系』第4巻 「火のなかのハス」より

※辟支仏(びゃくしぶつ):縁覚。独覚ともいい、師匠がなくて自分一人で修行し、悟りを得た者。寂静な孤独を好み、その悟りを人に説くことはしない聖者。

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