シカの恩

傲慢な王

昔、バーラーナシーの都で国を治めていたブラフマダッタ王は、たいそう狩りが好きであった。狩りで鍛えた王の力は人一倍強く、そのうえ人を人とも思わぬような、わがままで高慢な性格の持ち主でもあった。
その日も王は家来を引き連れて狩りに出かけ、森に着くと家来に向かって激しく言った。

いいか、お前たち、シカを捕り損なった者はだれであろうとむち打ちの刑にする

日ごろから王に不満をもっていた家来たちは、陰で口々に言い合った。

冗談じゃない。自分の家にいたってなにがどこにしまってあるのか気づかないこともあるのに、ましてこの森の中でシカがどこから飛び出すのか分かるはずがないじゃないか。

ひとつ王さまの前にシカが飛び出すように仕向けて、乱暴なことばかり言う王さまを懲らしめてやろうじゃないか。

家来たちはこっそり相談して、狩り場に着くと打ち合わせどおりシカを追い立てた。
シカは騒がしい物音に驚き、草むらの中を駆け回って逃げ場を探したが、すでに周りはすっかり取り囲まれていた。ただ一か所だけ手薄の場所を見つけると、矢のような速さで走り抜けようとした。そこは王の立っている辺りだったのである。全く予期していなかった王は、自分の真ん前をものすごい勢いで駆け抜けるシカを見て大慌てで矢を放ったが、命中するはずもなかった。
それもそのはず、このシカは矢をかわす天才だったのである。前から飛んでくる矢はゆっくり立ち止まってゆうゆうとかわし、後ろから飛んでくる矢は矢よりも早く走ってかわし、雨のように上から降ってくるたくさんの矢は体を小さく丸めてかわし、横から水平に飛んでくる矢はひょいと体をひねって上手にかわした。
そのうえ到底逃げられそうもない場所に追い込まれたときにはわざと倒れて死んだふりをしてみせ、すきを見て嵐のような勢いで一っ飛びに逃げ去ってしまうという素早さであった。王が矢を放ったとき、シカはあたかも矢が命中したかのようにごろりと倒れたのである。王は得意げに大きな声で叫んだ。

おうい、シカを射止めたぞ

だが、シカは家来たちの見ている前でひょいと立ち上がり、皆があっと驚くのをしり目に素早く囲みをすり抜けて逃げていってしまった。
この王の失敗に、家来たちは今こそ日頃の悔しさを晴らす時だとばかり口々に皮肉を言い合っておもしろがった。

だれだい、あのシカを射損じた間抜けなやつは。王さまにむちで打たれるぞ

地面を矢で射ておきながら、シカを射止めたなどとうれしそうに叫んだ愚か者の顔が見たいもんだ

王は悔しさに、ひとり考えた。

家来たちはわたしの本当の力を知らないのだ。よし、ひとりであのシカを捕まえてきて、わたしの力を見せてやろう。

家来たちがざわめいているすきに、王は馬にも乗らず、こっそりとシカを追って森の中へ入っていった。


森の沼

シカもその後を追う王も、深い森のさらに奥深い道をどんどん走っていった。途中にまるで落とし穴のようにひっそりと口を開けている古い沼があった。

シカは本能的に水のにおいをかいで沼があることを知り、その中へ落ちることもなかった。だが、ただ無我夢中でシカを追いかけてきた王は木や草の茂みの中に隠れているような沼を知るわけもなく、あっと叫んだ時はずるずると沼の深みにはまってしまった。

シカは今の今まで自分を追いかけてきた王の足音がパタリと途絶えたのに気づき、もしかするとあの沼に落ちたのかもしれないと思って引き返してきた。そして、草に覆われた底なしのような深い沼の中でもがき苦しんでいる王の姿を見つけた。数本の草を握った手も、もはや疲れ果てている様子だった。その哀れな様子を見てシカはかわいそうになってしまった。

あの王はわたしをねらって矢を放ったうえに、こんな森の奥深くまでしつこく追いかけてきたのだけれど、今わたしが助けなければ死んでしまう。

シカは敵であるはずの王を、まるで子を思う母のように身を投げ出して救おうとした。沼のふちに後ろ足でしっかり立ち、前足をできるだけ伸ばして深い沼に落ちた王を助け上げたのであった。そのうえ心を尽くして手当てをし、自分の背中に乗せて森の入り口まで送ってきたのである。シカの背中で揺れながら、王は命の恩人となったシカに心から感謝していた。

シカよ、どうかわたしといっしょに都に来てください。そして我が国の王になってください。あなたはわたしの命の恩人です。あなたにバーラーナシーの国をさしあげたいのです。

シカは王の言葉を聞くと、穏やかに言った。

ありがとう。王さま。でも、わたしは獣です。なんで人の国の王になることができましょうか。もしもあなたが本当にわたしに恩を感じてくださるのなら、どうか五つの戒めを守ってほしいのです。この戒めはあなただけではなく、あなたの家来をはじめ国中の人々にも守らせてください。お願いします。

こうしてシカは、生き物を殺さない、盗みをはたらかない、妻以外の女性とみだらなことをしない、うそをつかない、酒を飲まないという五つの戒めを守るように王を諭して、また深い森の中へ姿を消してしまった。


王の改心

王は命の恩人であるシカの後ろ姿を、目に涙さえ浮かべていつまでも見送っていた。やがて城へ帰り、王は早速シカと約束した五つの戒めを守るように触れを出し、太鼓をたたいて国中に伝えさせたのであった。
夜になり、王は夕食をすませると柔らかい布団に入って眠ろうとした。ところが王は昼間の出来事を思い出し、明け方近くまで眠ることができなかった。

あの心優しいシカが助けてくれなかったら、こんな安らかな夜を迎えることはできなかったのだ。あの森の寂しい沼の中で、だれひとり知る人もなく死んでいったに違いない。

王は床を出ていすの上に足を組んで座り、優しく気高いシカの姿を思い浮かべながら喜びのうたをうたうのだった。

希望に輝け 人は皆

賢い者よ 怠けるな

自分を知るのは 自分だけ

わたしの望みは 果たされた

希望に輝け 人は皆

賢い者よ 怠けるな

自分を知るのは 自分だけ

わたしは沼から 救われた

己と戦い 努力を積もう

賢い者よ 怠けるな

自分を知るのは 自分だけ

わたしの望みは 果たされた

己と戦い 努力を積もう

賢い者よ 怠けるな

自分を知るのは 自分だけ

わたしは沼から 救われた

たとえ苦海に 沈んでも

きっと抜け出る 希望をもとう

人生苦もあり 楽もある

あきらめないで 希望をもとう


朝早くいつものように王のごきげん伺いにやって来た司祭は、王の寝室の前まで来た時、高らかにうたう王の声を聞いた。司祭は寝室のとびらの前でじっと聞き耳を立てた。司祭は王の唱えるうたを聞いて、昨日の出来事の一部始終を鏡に映して見るように知ったのだった。司祭は声をかけて中に入り、王に向かってうたを唱えた。

険しい山路 シカ追う王は

底なし沼に 落ちました

追われたシカは 徳高く

王を救って くれました

岩で体を 支えてシカは

沼から王を 引き上げて

死から救って くれました

シカをたたえて あなたはうたう

王は、司祭がまるでいっしょに狩りにいっていたかのようにすべてを知っているのに驚いた。

森でわたしは ひとりきり

森ではだれも 見ていない

わたしの心と 行いを

お前はなんで 知ったのだ

司祭はほほ笑みながらうたで答えた。

森で王さま ひとりきり

森ではだれも 見ていない

王の心と 行いは

あなたのうたで 知りました

王は賢い司祭の答えにすっかり喜び、たくさんの宝物を与えた。

王はこの時から、優しさと哀れみの心に目覚めた。貧しい人々には施しを惜しまず、善行に努めた。国中の人々も王の恵みに感謝してそれぞれが善行に努めるようになったので、死んでからは皆天界に行けるようになったのである。こうして、天界はこの国から来る人でいっぱいになったという。


帝釈天の試練

さて、それ以来正しく国を治めていた王は、ある日庭に出て弓の練習をしていた。的をねらって矢をつがえ、キリキリと弓を引き絞った。

その時、不思議なことが起こった。的だと思ったその辺りに、シカがすっくと立っているではないか。

王は驚いて弓を下ろし、改めてシカを見つめようとした。するとシカの姿はなく、前方にあるのはまぎれもなく的であった。王は気を取り直してまた弓を引き絞ったが、的はまたしてもあのシカに見えるのであった。三度四度、王は弓を引き絞ってはやめ、やめては引き絞ることをくり返し、とうとうわけが分からなくなって矢を射るのをやめにした。すると、どこからともなくうたが聞こえてきた。

すべてを射殺す お前の強弓

なんでためらう 矢を放て

脂ものって 食べごろの

獲物に向かって 矢を放て

王は主のわからぬ声にうたで答えた。

王の食事に シカの肉

ふさわしいのは 知っているが

あの高徳の シカ王を

なんでわたしが 殺せるか

すると、また声が聞こえてきた。

あれに見えるは シカではない

阿修羅がシカに 化けている

あれを殺して 大王よ

不死の命の 王となれ

わたしの友でも 射るものを

王よ決して ためらうな

シカも射れない 勇者など

妻子もろとも 地獄行き

王はためらわす、きっぱりと答えた。

わたしの愛する すべてのものと

妻子友人 人民と

ともに地獄に 落ちるとしても

わたしはシカを 殺さない

シカはわたしを 救ってくれた

シカは命の 恩人だ

その恩決して 忘れない

わたしはシカを 殺さない

このように王が唱えるうちに、いつの間にか天界の神帝釈天が姿を現し、王に近づいてきた。

王よあなたの その言葉

正しい者の その気持ち

もって王国 治めなさい

栄えることを 祈りましょう

怒りを捨てて 安らかに

力に応じて 布施をなし

罪を作らず 治めれば

死後天界に 生まれよう

帝釈天はさらに王に語りかけるのであった。

さっきから的の辺りにシカの姿を見せてそなたを試していたのだが、王よ、あなたは少しの迷いもなく、シカに助けられたあの日から一心に五つの戒めを守り抜いている。これからも怠ることなく心をみがきなさい。

こう言うと、帝釈天は晴々とした様子で天界に帰っていった。王はいつまでもその場に立ち尽くし、帝釈天の後ろ姿を見送っていた。

ジャータカ483

『仏教説話大系』第7巻 「シカの恩」より
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